国分寺と国分尼寺跡とは

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国府(こくふ)には都から赴任してきた国司一家のために、「国司館」(こくしのたち)と呼ばれる官舎が用意されていました。
菅原孝標女も父とともに上総国司館に入ったと思われますが、その正確な位置はわかっていません。
しかし市原北部であることは間違いないようです。

古代の上総国府はどこにあったのか

左 有力な国府推定地である市原・郡本地区(画面右上)と村上地区(左下)。
 市原・郡本地区は台地上で、古代道が縦断することが発掘調査で確認されています。画面右側の赤い縦ラインが古代道で、これに沿って重要遺跡が展開しています。
 これに対し村上地区では、国分僧寺から低地に抜ける直線道路が「天平道路」と推測され、これを基準に方8町の国府域が想定されています。ただし近年は、この道路が本当に古代まで遡るかどうか、もう一度検討が必要と言われています。図では、上総国分僧寺の発掘調査に携われた須田勉氏の推定域を青の方形で示しましたが、同規模でやや北東にずれる石井則孝氏の説もあります。

国府寺院(こくふじいん)

律令制下、各国の国府には、政治を指導する国司(こくし)と、仏教指導を担う国師(こくし)が赴任していました。国司が国司館に入ったのに対し、国分寺ができる以前の国師は国府寺院に入ったわけです。上総国の場合、光善寺廃寺がこれにあたる可能性がありますが、発掘調査を行っていないため、詳細は不明のままです。

下野国府政庁の模型(奈良時代)

奈良時代当初の国府は、平城京の平城宮に該当する国衙(こくが)を中心に整備されました。国衙には、政治の中枢となる政庁(せいちょう)を中心に、重要官庁が置かれたようです。政庁は平城宮の大極殿院や朝堂院を模範とする配置で、上総国府も模型のように正殿を奥に置き、正面に前殿を、両翼に長大な脇殿を配するスタイルだったと考えられます。

館前遺跡(陸奥国司館)の復原模型(平安時代 9世紀前葉)

国司の政務の場を国庁とすると、生活の場が国司館になります。上の模型は平安時代前期の陸奥国司館に推測されるものですが、菅原孝標の時代より200年近く古い例になります。
国府政庁が行政の中心施設として維持されるのはせいぜい10世紀頃まで。孝標の時代には国司館が政庁としての役割も兼ねるようになっていたと考えられますので、上の模型とは少々異なるかもしれません。菅原孝標女一家がくらした上総国司館は、どのようなイメージなのでしょうか。今後の研究の進展が期待されます。