市原の歴史を学ぼう

Ichihara city history.

古代東海道本線から房総半島に分岐する主幹線(メインルート)の正確な位置は解っていませんが、
市原市内では海岸砂丘帯の上を通るルートが推定候補の一つに挙げられています。
この推定ルートは、下総国境から五井、姉崎一帯において、江戸時代の房総往還(現在の旧国道)に重なります。現代の航空写真に当てはめたのが下図です。
写真中央、養老川をはさんで点線になっている部分は、現在ルートが途絶えています。
古代の養老川は島穴神社より南西に流出していたと考えられています。
下流域が現在地に定着したのは江戸時代のことなので、そこにあった古来のルートも新規に廻し直されたのかもしれません。

下総国境~八幡・五所

千葉市側から下り方面を見た風景で、画面中央の看板から市原市に入ります。古来、千葉は下総国、市原は上総国に属していましたので、この辺りが国境になります。道からやや西側に入った一帯には、「古市場」という地名が残ります。かつて、市や墓域などの無縁世界は、人々の生活の場から隔絶した境界地域に置かれることが多かったと言います。古代・中世のある時期、国境である村田川下流域のどこかに、市場が賑わっていたのでしょうか。そもそも、何に対する「古」市場なのでしょうか。「新」に対する「古」だとすれば、新しい市場はどこに求めたら良いのかなど、いろいろな興味が湧くことと思います。

君塚~現養老川

治承4年(1180)、伊豆国で挙兵した源頼朝は石橋山で平氏方の軍勢に敗れ、房総半島南端の安房国に逃れました。頼朝はこの後、東京湾岸を移動しながら、房総・武蔵・相模の武士団を配下に吸収しつつ鎌倉に入り、武家政権を樹立します。
市原の古道には頼朝伝説がたくさん残ります。伝承ですから、その内容を歴史事実として鵜呑みにはできませんが、この地と鎌倉との関係を考える上では非常に参考となります。今回訪ねているメインルートにも頼朝伝説が数例あり、八幡地区の飯香岡八幡宮や君塚地区もその一つです。

島穴神社の路

古代メインルート推定ラインは、五井の大宮神社あたりから房総往還と離れ、内陸を進んだものと考えられます。どこへ行ってしまったのでしょうか。
大宮神社の南西方向約4.3km地点、島野地区から始まる小径がこれを示すのではないか、との説があります。この一帯は古代島穴郷の推定候補地でもあります。島穴郷には交通中継施設の駅家(えきか)が置かれたほか、式内社として知られる島穴神社も鎮座していました。現在、島野地区に鎮座する島穴神社が、その系譜を引くものと考えられています。

姉﨑神社の路

房総往還は再び海岸砂丘の上に乗り、東京湾沿いを進みます。姉崎の町場に入る少し前には「大道」という小字があり、古い主要道の遺名と思われます。
姉崎地区には大型前方後円墳からなる姉崎古墳群が知られていますので、その中の二子塚古墳・釈迦山古墳を訪れます。また、現在も海上氏が宮司を務める姉崎神社に詣で、古代式内社の面影をしのびます。