平安時代と上総国

Ichihara city during the Heian period.

平安時代、日本の行政区分は、今の「都道府県」にあたる66の国に分かれていました。これらの国々は「五畿七道」(ごきしちどう)と呼ばれる8ブロックにまとめられていました。上の図を見てください。薄茶色のラインが五畿七道の境界線です。

都周辺の国々は、大化の改新で「畿内国」と定められ、平安時代には大和・山城・摂津・和泉・河内の五畿が定着しました。

これ以外の国々は、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道に区分けされました。「道」と呼ばれたのは、都から放射状に整備した官道に沿ったためです。上図の赤ライン(一部青)を見てください。この道こそが当時のメインストリート、わが国の大動脈であったわけです。
さて、各国には政治の中心たる国府が置かれました。各国の年貢などは、いったん国府でとりまとめてから都に運びます。地方の人々にとって国府は中央政府の玄関口というわけです。官道は、都と日本全土66の国の国府を結ぶ流通ネットワークであり、その開発と整備は、古くから政府の重要課題として取り組まれてきました。
ちなみに関東地方は、上野(群馬)・下野(栃木)が東山道、相模(神奈川)・武蔵(東京・埼玉)・下総・上総・安房(千葉)・常陸(茨城)が東海道に入ります。上総国府にやってきた孝標女一行は、東海道、上図の青ラインを往復したわけです。

平安中期の南関東

東海道の本道は、武蔵国から常陸国に延びていきます。上総・安房国を結ぶ経路は、本道からの分岐道です。これを仮に上総における「メインルート」と呼ぶことにします。
上図の赤丸が国府です。千葉県は上総・下総・安房の3つの国がありますので、国府も3ヶ所ありました。当然国分寺も3つあります。上総国府は矢印の示すあたりです。
もっと昔の奈良時代、上総国から都に上るには、直接東京湾を横断し相模国の三浦半島に上陸する海上ルートが取られていました。しかし宝亀2年(771)以降、武蔵国が東山道から東海道に編入されると、東京湾岸に沿って下総・武蔵を通り、相模湾岸に抜ける陸上コースに変わります。上の図がそのコースで、孝標女も通りました。