菅原孝標女の家族

Family Status.

菅原氏は京に暮らしていた貴族です。もともとは土師(はじ)姓でしたが、古墳殉葬者のかわりに埴輪を作った功績で、
天平年間に「菅原」姓を賜った、と伝えられています(『続日本紀』)。
それ以降は需学者を輩出した家柄で、文章博士や大学頭などの学職を代々歴任しました。
とくに菅原道真は政治家としても優れ、遣唐使の廃止などは良く知られています。
道真は右大臣・右大将まで昇進し、政界のトップとして活躍しましたが、ライバル藤原時平の動きにより大宰府に左遷され、59歳で没しました。
その後の菅原氏は、受領階層の中流貴族に落ち着きます。中世以降も儒学を家業として伝え、名実ともに学問の家を相伝していきました。

菅原孝標女

寛弘5年(1008)生まれ、本名は不明。『更級日記』の作者として有名です。また、『夜半の寝覚』(よわのねざめ) 『浜松中納言物語』などの作者といわれています。大学頭や文章博士を代々務める学問の家柄で、兄の定義もこれらの職に任命されています。また、母方の叔母に『蜻蛉日記』を記した藤原道綱母がおり、父が上総下向に連れそった継母は、後に「上総大輔」と呼ばれる歌人でした。このような環境は、作者の物語への傾倒に大きな影響を与えたものと考えらます。

菅原孝標(父)

『更級日記』の作者である菅原孝標女の実父。寛仁元年(1017年)に上総介、長元5年(1032年)に正五位下・常陸介に任命されました。学問の家に生まれたが、菅原家のシンボルである学者職の長官には就けずじまいでした。

『更級日記』によると、常陸介として赴任した4年後の長元9年(1036年)に帰京しました。60歳という高齢で任国へ赴く父との今生の別れの箇所は、『更級日記』の中でも有名なシーンの一つです。

高階成行の女(継母)

菅原孝標女の実の母ではなく菅原孝標が上総介になる前に結婚した第二夫人。『更級日記』の記載では、継母の離婚後も作者と和歌のやりとりが続きます。継母は作者の姉が亡くなった時も、和歌を寄せています。おそらく作者と継母は離別後も交際を続けたのではないでしょうか。

乳母

当時の貴族社会では、実の母が子に授乳することはなく、乳母の乳を飲ませ養育しました。「うば」とは子供側からの呼び名で、一般には「めのと」と呼ばれます。松里での乳母は更級作者の描写では、まだまだ美しさを残した女性であり、中年という印象はありません。

菅原定義(兄)

菅原孝標女の兄であり作者の面倒を良く見ていました。菅原道真から教えて6代目に当たります。和泉守に就任すると前任国司の非道による国の疲弊を朝廷に奏上したりしました。

読書が好きで、孝標一家が生活していた上総国司館で継母といっしょに色々な物語や光源氏のことなどを楽しそうに語り合っていたそうです。その2人の会話を聞くにつれて作者は都への興味が湧いていきました。