更級日記とは

About Sarashina Nikki.

平安中期、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が書いた日記文学であり、
作者13歳のおり、父の任地上総国(千葉県中央部)から帰京の旅に筆をおこし、
以後40余年に及ぶ半生を自伝的に回想したものです。

市原で育った菅原孝標女の人生回想録

更級日記は、作者の菅原孝標女が、寛仁4年(西暦1020年)に父の菅原孝標が上総の国の国司の任期を終え、共に帰京した13歳の頃から始まり、50代までの約40年間を書き綴った回想録です。

孝標女は物語の世界に強いあこがれを抱き、『源氏物語』の夕顔や浮舟のような恋愛に焦がれる娘でした。前半は、上総の国から東海道を京の都まで旅した時の風景や出来事を綴る紀行文になっています。約90日にも及ぶ大変な旅でしたが、道中で目にする富士山や浜名の橋(浜名湖)で見た波に感動している姿も書かれています。

また、京に戻ってからは、親しかった継母との別れ、愛する乳母や姉の死、家の火事など厳しい現実がありました。その後、宮仕えや結婚を経て、物語の世界と現実の違いを認識し、夫や子どもの将来を願うという現実的な夢を追うことになりました。しかしやっとのことで信濃守になった夫が急死し、孝標女は悲しみに暮れます。

更級日記は、孝標女の自叙伝であり回想録です。更級日記からは、平安時代の中流貴族の生活や当時の女性の生き方がはっきりと読み取れます。

上総の国への思いが表現されている冒頭部分

更級日記の冒頭には「あずまぢの道のはてよりも、なほ奥つかたに生い出でたる人~」とあります。これは「京から東へ続く道(東海道)の終わりまで行ったところから、さらに奥に行ったところ(上総の国)で成長した人」という意味で、孝標女が市原で育ったところとして記されています。ここ市原を子どもの頃に暮らし、自分を育ててくれたふるさとと感じているからこその表現と考えられます。

月もいででやみに暮れたる姨捨に何とて今宵たづね来つるらむ

この姨捨山は夫が晩年に国司を務めた信濃国の更級郡にあり、作品名の由来となりました。
全体に『和泉式部日記』や『蜻蛉日記』のような盛り上がりはありませんが、そのぶん静かに流れるような文体は、受領階層の娘がたどる人生の現実を切なく表現しており、諦観の調べが心地よいものとなっています。要所要所に見える巧みな月の描写が印象的です。